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はるぱり・そんぐす🎈

東京パリカのブンガク恋慕 はるぱり XII? 

ひなまつり🎎

 

日づけがかわって雛祭りの日がすぎたことに気づくと、せんじつ実家でかわいらしい母がちいさなかわいらしいひな人形のいくつかをきれいに並べていたイメージがうかんだ。つづいて幼いころの記憶。年のはなれたおさないいもうとが、米粒をいっぱいかおにつけてわらっている。いもうとは子どものころからごはんがすきだった。雛祭りは亡くなった母方の祖父の誕生日で、どうじに祝っていたのだとおもう。毎年の行事などではない、たぶん、一度きりのこと。いつもしずかなおじいちゃんはお酒をのんできげんをよくしていたにちがいない。いつもしずかなおじいちゃんは、お酒をのむとうたをうれしそうにうたう。それも習慣の記憶ではない。かまいしの祖父と祖母には幼いころに最後にその土地から引越で去ってからは十年おきくらいに三度あっただけだ。おじいちゃんは死んでしまったけれど、まだ死んだとおもえずにいる。もうあえないということがよくわからない。

引越が比較的多い暮らしをしてきたから、習慣や土地のならわしといったものへの感性に乏しいとかんじている。ひととのかかわりがおもうようにうまくできないのも、それにかんけいしているとおもっているところがどうしてもある。そのせいか、いまだに習慣というものへの憧憬がつよく、土着的なものには疎外感をかんじてしまいがちだ。疎外感を埋めたり薄めたりするために、できるだけ一つの土地にながく居たがるところがある。土着的な感覚を、それを自分のものにできなくても想像してみたいのだとおもう。パリにながく居ようとし、じっさいながく居つづけたのは、やるべきことがあったからというより以上に、ひょっとすると、ながく居るためにながく居たのかもしれない。たぶん、そうなのだとおもう。そうした感覚が、家族とか、友人とか、土地の人たちとのかかわりのなかでしか形成されないことはわかったうえでのことだ。ずっといる人、ずっといる場所、それへのおとなしいあこがれ。

それでも、たった一度きりの出来事でも、出来事がたいせつなおもいでになりうるということに気づいた。あたまりまえなことかもしれないけれど、気づいたのは、ごくさいきんのこと。きのうきょうのこと。

雛祭りの日の記憶。幼いころのべつのおもいで。だれかの家で雛祭りのかえうたを、だれだったのかもうわからない、たぶんそのときもよくわかっていなかったほかの子どもと一緒にうたっている記憶。    04/03/2017